第23話 眼でみる管理 (1)
2013年4月23日
最近、新聞、雑誌上でも「見える化」なる言葉が使われている。
この言葉が一般化することは、これに携わった者の一人として大変喜ばしい。
しかし一方では、その本来の意味が消えるのではないかとも心配している。
例えば、「見える化」と「見せる化」は同じであると唱える人も出ている。
そこで、本来の意味とは何であるかを探っていく事にする。
60年位前、トヨタ(旧トヨタ自動車工業(株))では、故大野耐一さんが「現物を上手く管理するには、
人間が現場を眼で見て解かる様にしなければならない」と言われていたという。
私が教えられたのは、その後10年位経ってからで、その時には「眼で見る管理」と言われていた。
「一つ一つ説明するのではなく、一眼で見て解かることが上手い管理につながる」と言われたものである。
「他人に見せるモノではなく、自分がより上手い管理をするためのモノである」と言われた。
しかし、「眼で見る管理」と言う言葉は少し長い。
そこでしばらく経過した後、「眼で見る管理」→「視解化」→「みえる化」
と転化していったのではないかと思う。
“より上手い管理”とは、より良いACTIONにつなげるという“行動”を意味するものである。
「見せる化」はそういった意味では直接的にはACTIONにはつながらない。
もう一度整理すると「眼で見る管理」とは、
1.“より上手い管理”を行うという目的がある。
この目的達成のためのTOOLとしての眼で見る管理である。
2.そのTOOLを“みて解かる”ということである。
最も良い“みて解かる”とは説明の言葉ナシでも、見て一発で解かる(又は理解してもらえる)ことである。
3.より上手い管理とはより良いACTIONが出てくることである。
眼で見る管理のTOOLとは、トヨタでは「今、どうなっているか」を眼でみて解かるものとして
すでに御承知の通り、
「アンドン」
「カンバン」
「星取表」
「置場表示」
等がある。
「みる」ということ
「みる」という“かな”にした理由は、「みる」という漢字が26ある(安岡正篤)そうである。
また、漢和中辞典(角川書店)では同訓として 15もある。英語でも10数個ある。
これほど「みる」ということは奥深く、大脳皮質の大部分を占めている。(人間の五感の内最大の器官になる)
従って「みる」はTPOによって変わるのは当然である。
一般には経営管理上では「見る」(“聞く”の対語でちょっと見る)、「視る」(じっくり視る、熟視)、
「観る」(視以上に念入りに、眼光紙背に徹するほど観る)の3つの「みる」で十分である。
私はこの3つについて
「見える化」:“「ムダ」の発見”
「視える化」:“「むだ」の発見”
「観える化」:“「真因」・「本質」の発見”
と定義している。
“「ムダ」の発見”とは、少し訓練すれば現場作業の「ムダ」が解かる様な、すぐ解かる無駄(=「ムダ」)を
見つけることである。
“「むだ」の発見”とは、一見して解からない無駄(=「むだ」)を見つけるためにじっくりと熟視することである。
ホワイトカラーの現場に多い。
“「真因」・「本質」の発見”とは、その現象、そのモノの真の原因、本質を見極めるために徹底して観ることである。
前にもふれたように「見る」「視る」「観る」の訓練はほとんど行われていない。
自分で自修するしかない。
自修によって、私の場合、1分間の現場の「ムダ」の発見が6個(40数年前)から現在は30~40個になった。
蛇足: 仏教の五眼(ごげん)・・・仏教大辞典
認識の能力を眼になぞらえて整理したモノ
1.肉眼(にくげん):人間の肉体に備わっている眼
2.天眼(てんげん):すべてを見通す力
理性的、解析的な見方(森政弘)
3.慧眼(えげん) :真実を見通す眼
哲学的、法則を見る眼(森政弘)
4.法眼(ほうげん):仏法の正理を見る智慧の眼
芸術的な眼、エゴを取り除いた眼(森政弘)
5.仏眼(ぶつげん):悟りを開いた者の、一切を見、一切を知る眼
仏の内証の智
五見(ごけん):五つの誤った見解
1.有身見(うしんけん) :執着心
2.辺執見(へんしゅうけん) :極端に一変に偏した見解、断見
3.邪見(じゃけん) :因果の理法を否定する見解
4.見取見(けんしゅけん) :誤った自分の考えを正しいと固執する見解
5.戒禁取見(かいこんじゃけん):外道の誤った戒律を守ることをもって悟りの修行であるとする見解
(近藤 哲夫)
第22話 訓練について (2)-技術の転移と守・破・離
2013年4月09日
技術はモノとしてのアウトプットが発生するためか、特に生産技術、加工技術の転移は
そんなに時間を置かずに発生するものである。
転移が違法か(例えば盗み)合法かは別として、アウトプットとしてのモノを見れば
ベテランは工法を推測できると言われている。
実際にイギリスの産業革命のスタートである繊維産業の織機は、当時(18世紀)絹織物の生産の中心であった
イタリアから設計図を盗み出したものであった。
また、アメリカの繊維産業の発展も、19世紀あるアメリカ人が靴底に設計図を入れて、イギリスから持ちだした
ものであった。
近年、NIESを始めとする発展も、例えば日本から、技術者を土、日曜にその国に呼んで指導させるといった
人による工法の伝達が行われていた。
約45年前、私がアメリカジョージア工科大学でのある講座の折、教授が言ったことを今でも鮮明に覚えている。
「技術、特に加工技術は地方に伝播する特性がある。それにより、その技術はあるアイデアが追加されリファイン
されていく。」また、「技術はモノマネから始まる。イギリスでもアメリカでもまずはモノマネから始まった。」
当時、日本の自動車、電気等の商品は、欧米から「モノマネ」とからかわれていたものである。
(自分たちも昔モノマネしたのを忘れている!)
日本語のマナブ(学ぶ)はマネル(真似る)から転化したものであると言われている。
日本文化のほとんどは、当時の隋、唐などから輸入されたモノである。
現在、我々が日本文化と呼んでいるもののほとんどは、室町時代の東山文化(1480年代室町八代将軍義政時代)
に起因すると言われている。
百済から漢字が日本にもたらされて以来(513年頃)、漢字からカナが発明され約900年間日本の中で
徐々に醗酵され、能楽、茶道、日本禅、そして武道へと昇華していったと考えられている。(藤原稜三)
このプロセスを日本人は序、破、急または守、破、離と呼んだ。
序、破、急は主として当時、能に於いて使用されていたが江戸時代以降、守、破、離が主流になった様である。
(藤原稜三 -守、破、離の思想)
藤原に依れば「序」は「守」と同じ、「急」は「離」と同じと解釈される。
「守」とは「師の教えに従って、守の稽古を続けることに専心する。」
「破」とは「守の修行に精進した後で、自分の創意工夫の開発に努める。」
「離」とは「破の最終段階として、師の思想、行動を究尽、再吟味し、次の飛躍の準備をし、修練、努力する。」
なお、利休の弟子の山上宗二によれば『茶道における「離」は天才的で現世の真相を悟得した良い師匠に
巡り会わないと不可能である。良い師匠に恵まれ、努力精進すれば花(離)は咲く』と言っている。
禅及び武道では「離」のことを「悟る」又は「覚性」と言うそうである。
これには言葉はいらない。
日本人は中国から律令制度を導入したとき、他国(朝鮮、ベトナム)では一緒に導入した「科挙」や
「宦官」の制度をはっきり拒否している。
また、明治維新の時でも、堺屋太一氏の言う「好々開国」に踏み切りながら「和魂洋才」と言って
魂を強調し、「方便」として開国を実施した。
この様に、日本人は海外からの新しい文化、文明に接した時、その全てを「マネル」のではなく
取捨選択して受け入れたのである。即ち、心の底では日本人としてのアイデンティティを保持していると言えば
これは日本人の長所、特徴ではないだろうか。
日本人はこのアイデンティティによって900年かかって、日本文化を創造したのである。
この間、色々な苦労もあったと思うが、その基底は守、破、離の思想と、日々精進、努力、即ち訓練であった。
ある条件の基でアイデンティティを持って、日々訓練することが日本人の特徴であり、長所なのである。
技術の転移はモノが存在する限り必然である。(原子爆弾の作り方さえ転移した)
となると、工業製品でその技術をカクシ通すのは無理である。
近年、工場見学を不許可のメーカーが増加しているが、これは正に人間の歴史に反する行為であることを
知っているだろうか。
大野さんはかつて自動車技術会の技術者達が工場見学の申し込みをしたとき、「見せなさい。
写真を撮らせても良い。君達が更に改善すれば数ヵ月後には違った工場になる。
君達が改善する気持ちが無ければすぐマネされるワナ。」と言った。
日々改善によって工場は日進月歩で変化する。これが技術の転移に対抗する手段である。
また、高度の品質保証体制を保持するためには、守、破、離の思想に基づいた日々精進
― 訓練 ―こそが基本である。
(近藤 哲夫)