第45話 目でみる管理(7)-眼の錯覚の排除
2014年3月25日
先日「耳で考える」(養老孟司、久石譲 角川ONE21)を読んだときに、人間の六官は
意外と錯覚が多いのに気づいた。
「錯覚の科学」(第12話参照)では6つの錯覚の例を出していた。
また仏教では5見と云って、5つの誤った見方を示している。(第23話参照)
この様に我々の眼は必ずしも真実を見ている訳ではない。
眼で「見て」→いくつかの段階→脳で「わかる」
ということらしい。
問題は「このいくつかの段階」である。
この段階を左右するのが、その人の予め貯蓄している「知」らしい。
一般に経験知と云われるものらしい。
仏教書などから私なりに推察すると
私共が「わかる」という理解は二通りある様だ。
①知識的理解
・マニュアル、テキスト、文字に則して
・場所は学校、塾
・指導者は一般には先生
・覚えるのは「形式知」・・・字で書かれたもの
・「考える」ことは頭のみ、「頭得」(これは私が作った言葉、体得と対語)
②知恵的理解
・行動により、生活により
・仕事場、実業の場
・師匠の背中をみて
・ほとんど「暗黙知」・・・字になっていない
・「体で考える」「体得」
経験知と云われるものの多くは「体得」であり、「頭得」は少しである。
「体得」した「知」はなかなか忘れないものの様だ。
友人の医師によれば「体得」した知は一部本能化しアルツハイマーになっても忘れないとのことだ。
「体得」した智(知恵としての智)の1つが「自戒」であり、その見方は「先入観」である。
「先入観」を捨てることが「意識を変える」ことであり、即ち自分の「見方を換える」ことであり、
「パラダイムチェンジ」である。
仏教でも5見の第1に「有身見(うしんけん)」と云って「執着心」を説明しており、第4には
「見取見(けんしゅけん)」と云って「誤った自分の考えを正しいと固執見解」として戒めている。
この様に人間の6つのセンサーの内
「眼」と「意」(心)は「先入観」「我執」等によって見えなくなってしまう。
いわゆる多くの錯覚があることがわかる。
「見落としを見落とす 見落とし」とは正に的を射ている。
「舌」はどうだろうか。
2014年1月19日の日経新聞によると、「おいしい」と感ずるのは「舌」と同時に「脳」も感ずる様である。
脳の中の前頭前野で味覚、視覚、価格、経験、嗅覚、食感、雰囲気などを統合して「おいしい」と云うらしい。
また新鮮な野菜等の気持良い「写真」を前にして飲むジュースは「おいしくて新鮮」と感じるし、不快な「写真」
では「そうでもない」と感じるらしい。
このことは「鼻」も同じらしい。
味覚も嗅覚も「希少で高価なものはおいしいはず」という先入観で「レッドキャビア」を「トビウオの卵」と
間違えることになる。
「身」はどうだろうか。
「身」は触覚というセンサーがついている。
触覚は、味、臭と同様乳幼児期の体験に左右される様だ。
やわらかい毛布に包まれていた乳幼児期のそのフンワリ感はいつまでも覚えている様だ。
また好きな人に触られると好感を持ち、反対に嫌いな人からだと嫌悪感を抱くという。
最後は「耳」はどうか。
養老先生によると「耳」が一番錯覚に左右されないらしい。
あまり「脳」よる判断がないらしい。
だから音楽は、いつ、どこで聞いても楽しいことになるとのこと。
しかし「空耳」はどうなんだろう?
錯覚か病気か真実か。
以上 心、目、鼻、舌、身、耳の六つの器官センサーとして
意識、視、臭、味、触、聴についての錯覚の度合いを説明した。
「見る」ことはよほど注意しないと、すぐ錯覚に落ちる。
錯覚に落ちないためには、具体的なルール、マニュアルが必要になる。
しかし一番大切にしなければならないことは
大野さんの云われる様に
先入観なしで「白紙」でみる
ことを心掛けることだと思う。
(近藤哲夫)
第44話 目でみる管理(6)-モノサシの重要性
2014年3月12日
最近TVをみる機会が以前より少し多くなって、気づくことが幾つかある。
その一つが薬の宣伝広告で使われているデータである。
「・・・この薬は他の薬に比べてすばらしい効果があります・・」
という話である。
私の様な統計に関係していた人間にとってみると、他の薬とは一体どの様な何という薬なのか?
どんな調査をした?調査データはいくつ?すばらしいとはどんな数値?・・・
等々の疑問が生まれる。
ヒドイのは一人又は数人のマネキン(?)を招いて「・・・これで貴方はすばらしくなりました・・」と
一個又は数個のサンプルを宣伝しているものもある。
つい先日、ある著名な広告評論家が亡くなりましたが、やはり人間の良心に沿った批評を
お願いしたものである。(現在のジャーナリズムはできるカナ?)
すばらしいとか、すばらしくないは、少なくとも日本の工業社会はJISという規格・基準に
従ってその判断を決めている。
農業はJASによって定まっている。(食品は時としてJISとJASが異なる場合がある)
工場でも構内に「線引き」するのは「この線より中に入っては駄目」という基準・ルールよる。
基準・ルールなしでは管理(Control)はデキナイ
管理(Control)とは「ある基準・ルールに基づいて計画(Plan)し→
それに基づいて行動し(Do)→その結果を評価(Check)し→
評価結果に基づいて再発防止対策を取るか、次のステップに進むか(Action)の
P→D→C→A→Pのサークルを廻すこと」であるからである。
基準・ルールなしでは、まず計画ができない。
計画とは「現状を変えるためにおこなう」ものであって、現状維持であればスケジュール(日程)のみでヨイ。
現状を変えるということは、まず現状を見るということから始まる。
みるためには何らかの基準・ルールがないと判断ができない。
次に評価ができない。評価とはある基準・ルールに基づいて行うものであるからである。
まだ目に見えるモノの管理はやり易い。
ルールがなければ「暫定ルール」を決めて行える。
改善を実施していると数多くの暫定ルールを造って、改善を推進した。
この暫定ルールは、改善後に基準になったり又は消却したりした。
目に見え難いモノ(テーマ)については、困難な場合が多い。
第24話でも話したが、例えば“経営体質の改善”というテーマについて改善したかどうか、
何を持って計測するか?モノサシは何か?
P.F.Druckerは、企業のみでなくあらゆる組織体(NPO、官庁など)にこのモノサシを持つ
必要があると指摘している。
モノサシとは日本人が古来使用していた“長さを測る道具”である。
モノサシは基準であり、ルールである。
経営者の勘に頼るばかりではなく、このモノサシによって第三者にも分かるように計量化するのである。
江戸時代、分限者(南九州では、ブゲンシャと呼んだ。)というのは金持ちのことで、それは倉の大きさ、
数で決めていたという話を聞いたことがある。
日本人は江戸時代から見に見えないモノでも何らかの形のモノサシを見つけてその対象を計量化していた。
それは日本語にも表れている。
「心遣い」「心配り」「思いやり」「気配り」など、心・思い・気という目に見えないモノをその結果で判断していた。
最近のジャーナリズムの論調には「近年の日本人には他人への気遣いに欠ける」というものがある。
しかし電車のマナー等は海外に比べてそう劣っているとは思わない風景に出合う。(特に女性)
海外では(ドコとは云えないが)電車でお化粧、パン食いは当たり前という所が多い。
(私の少ない体験だが)
「気遣い」「マナー」等の暗黙のルールのレベルが少し下がったかもしれない。
私が上京した昭和27年頃は戦後間もない頃で傷痍軍人が車内で募金していた。
募金箱に多くの人が入れていた。
目に見え難いモノのレベルは時代により、文化により変化するのは当然であるが、
日本人として現代に生きる者としての最低のレベルは何かを考えていきたい。
そうでないと2020年の東京オリンピックの「おもてなし」が個人個人バラバラになり
意味するところが分からなくなる。
私の考えは次にしたい。
(近藤哲夫)